悪とは、そなたたちの影のことであるぞ。
そなたたちが隠そうとした感情や欲求が影じゃ。
見たくない自分を隠したのじゃ。
根底にあるのは恐怖。
今のすべての人間には、根底に恐怖がある。
この恐怖は、存在できなくなると思うほどの恐怖じゃ。
自分を見つめることが少ない人間にとって、あるはずがないと申すであろう。
それが我よしぞ。
これに氣付き解放することが身魂磨きとなる。
それに長い年月が必要な者もたくさんおるぞ。
それで、早くから伝えておるのじゃ。
その恐怖を言葉にするならば、
見向きもされず、ひとりぼっちになってしまう恐怖、
自分は本当は傲慢な人間だと氣づく恐怖、
自分に欠陥があることが知られる恐怖、
自分には価値がなく劣っていることを知られる恐怖、
自分は愚かで厄介者であることを知られる恐怖、
自分は醜く恥ずべき存在だと明るみになる恐怖じゃ。
頭で理解させるために伝えたのではないぞ。
肝に落ちると、肉体に変化が起こる。
感情に変化が起こるのじゃ。
呼吸が変わるのじゃ。
それらを体験せずに、分かったと申してはならん。
もともとこれらは、人間の御魂のものではない。
肉体に備わっておる恐怖で、生い立ちの中で強化されるものじゃ。
そして、身体に入った御魂が、成長するための課題として設けられた。
人間には、根底にエゴと共に作られたこれらの恐怖がある。
それを超えて成長していく人間と、
繕ったまま生きる人間に分かれる。
多くの人々は人生を通じて、それを隠す行動をしておる。
それらを周囲に知られないようにするために、作った自分を見せる。
正しくあろうとする者、
強くたくましく見せようとする者、
みな、毎日演技をする。
それが自分磨きじゃと思うておる。
それがゴモクとなり、
ますます多くのめぐりを生むことになる。
自分が神の子であることを信じられん者は、
これらの恐怖を抱えておるからじゃ。
斜めに光をいただくとは、このことぞ。
ゆえに、影が出来る。
隠そうとする自分と見せようとする自分、
それが光と影になる。
斜めすぎて、影が多い人間もおるぞ。
影は主人ではない。
絶対は、何と申しても絶対ぞ。
てっぺんから光をいただけよ。
陽の光もてっぺんから射せば、影はなくなるであろう。
陰がなくなって初めて、
そなたたちは自分が神の子であることが分かる。
阿呆になれよというのは、このことぞ。
影は光のない状態じゃ。
光を見せることはできるが、影はもともと存在しておらん。
光が無いだけじゃ。
光は存在するが、影は無い。
自分には闇がある、影があると申しておるが、影は自分で作ったのぞ。
光を当てぬからできたのぞ。
光をそなたの中に入れよ。
闇に光を当てよ。
それが身魂磨きぞ。
神を信じて、自分の影に光を射せよ。
光を欲するのは善、神ぞ。
闇を欲するのは悪、邪神ぞ。
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