理(みち)しるべを作っておくぞ。
喜びの理じゃ。
喜びとは、人間のいのちを正しく育てることぞ。
二通りの人間がおる。
ひとつは眠っておる人間、
もうひとつは、目覚めている人間じゃ。
その中間でまどろんでおる人間もおる。
喜びも二通り。
眠っておる人間の喜びは、快楽であり、肉体の快感じゃ。
快感という喜びは、外からの五感の刺激で起こる。
食べること、見ること、聞くこと、体感することじゃ。
その快楽は、しばらくすると消え失せる。
消えると、また欲しがる。
眠っておる人間は、快楽を常に求め続ける。
快楽の追求が、幸せにつながると信じておる。
快楽のために、辛抱する。
快楽のために、苦痛に耐える。
努力や苦痛の後の快楽は、解放となる。
苦がなければ、快楽を感じられん。
ゆえに快楽は、苦とともに存在する。
するとゴモクができる。
目覚めておる人間の喜びは、解放ではない。
苦痛でもない。
喜びあるのみじゃ。
望むものが肉体的なものから、心理的なものに変わるからぞ。
喜びの量ではなく、質を求めるようになる。
深みを求めるようになる。
刺激から得ようとするのではなく、常に喜びの状態じゃ。
すると、沈黙でさえも喜びとなる。
それは魂の喜びとなる。
いのちを正しく育てるとは、
魂の声を聞けるようにすることじゃ。
それが喜びにつながる。
すべての魂は、喜びを求めておる。
そなたたちが本当に求めている喜びとは、どのようなものか。
魂の喜びは、ひとり一人違うであろう。
そなたの内から生まれる喜びを知ること。
快楽からくる喜びは外からじゃ。
エゴを満たす満足じゃ。
身体を満たす満足じゃ。
そなたたちは肉体の中に生きておるから、快楽も結構じゃが、
それが人生の目標や人生の時間つぶしにするではないぞ。
エゴを求めるものは、不調和を作る。
我正しがあるから、争いともなろう。
得を欲しがるから、取り合う。
勝とうとするから、踏みつける。
安定を求めようとするから、成長がない。
これは生命を正しく育てる喜びではないぞ。
エゴの求めるエネルギーは、常にそなたたちを突き動かす。
それに氣づき魂に意識を向けねば、自分を正しく育てることはできん。
人を育てる場合も同じじゃ。
人間は、神の喜びの全き現われであると申した。
いくら穢れておっても、元の神の根源神の氣をいただいておる。
それを育てることじゃ。
導くことじゃ。
死なんとする人を助けるのもそのひとつ。
喜びの道を知らんから、死のうとする。
そなたたちの社会は、喜びを殺さんと生きてはいかれん。
死に急ぐ者にそれを伝えよ。
光の道を示せよ。
宿った子を殺すことは、人を殺すこと。
喜びの道を知らんから、殺そうとするのぞ。
喜びの道を知らんから、今の人間は九分九厘死んでいるのぞ。
自分を殺し、知らずに人を死へと導いているのぞ。
社会で勝つことを教える大人も、子どもを緩やかに殺しているのだぞ。
救え、救え、救え。
光は来るぞ。
生かせよ。
生かせよ。
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