出足の港は夫婦の理からじゃと申してあろう。
それが真理と申してあろう。
これが乱れると世が乱れるぞ。
神界の乱れ、イロからじゃと申してあろう。
男女の道を正さん限り、世界はちっとも良くならん。
男は天ぞ。
女は大地ぞ。
天と大地は、働きが違うであろう。
大地が、天の働きをしようとはせんぞ。
天が、大地の働きをしようとはせんぞ。
それでは生命は生まれん。
生き物は育たん。
すべては乱れ、この世は荒廃じゃ。
天と大地が信頼し合い、それぞれの働きを成し、融合することで、
すべては光輝くのぞ。
すべては生命するのぞ。
天は、大地を従わせようとはせんぞ。
大地は、天を操ろうとはせんぞ。
今の世の様を見てみよ。
早く考えを改めてくれよ。
和は力ぞ。
育て合えよ。
光を当てよ。
外からの愛、内からの愛、
身魂を磨いたと申しても、
むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、悔しくなったりするのは、
まだめぐりあるからじゃ。
めぐりの靈界との因縁が切れておらんからぞ。
靈界の因縁を切るには、本来の愛を養わねばならん。
夫婦は命がけで、お互いに築き合わねばならんぞ。
夫婦愛は最初からあるのではない。
築き上げるものぞ。
生み出すものぞ。
夫婦愛が育てば、子どもは愛を感じて育つ。
家庭は、夫婦愛が先じゃ。
お互いに愛が育てば、生きとし生けるものへの愛が育つ。
多くの人間が愛を感じるのは、外からの刺激じゃ。
愛しい人を見れば、内から愛情が湧くであろう。
美しい花や景色に出会えば、内から愛情と喜びが湧くであろう。
されど、これらは外からの刺激で、内から湧く感情ぞ。
愛情ぞ。
愛情と愛は違う。
情を絡ませるな。
絡ませると愛着が深まり、そのうち執着となる。
執着は、束縛を生む。
束縛は、恐れからくる。
それは悪じゃ。
もはや愛ではない。
されど、もうひとつの愛がある。
純粋な愛は、外の刺激に関係なく湧きおこる。
内に愛をたたえておる人は、外の世界で何を見ようと、
その愛の源泉が絶たれることはない。
純粋な感情はみな同じじゃ。
怒りや恨みは、外に対象がある。
誰かに対する怒りや恨みは、外の刺激からの反応じゃ。
誰もおらんのに恨みが自然に湧くことはないであろう。
愛も外の対象がなければ湧いてこないなら、それは純粋な愛ではない。
刺激に対する反応としての愛情は、心の周辺で起こる。
周辺で起こったものは、二極の思考を生む。
愛か憎しみか。
愛の裏に憎しみが生じるのじゃ。
愛に疲れると、何かのきっかけで憎しみとなり、
憎むことに疲れると、愛に変わる。
眠っておる人間は、毎日それを繰り返す。
そしてゴモクが溜まる。
身魂を磨くということは、
源泉にある純粋な愛に氣づき、それを解放することじゃ。
されば、そなたの中にこんこんと静かな愛のエネルギーが湧いてくるであろう。
何もなければ、憎しみは内からは湧きおこらん。
何もなくてもあるのが愛じゃ。
内側の愛に意識を向けよ。
内なる純粋な愛は常にあるぞ。
内にある愛をはぐくむことが夫婦愛となる。
それは夫婦お互いだけに限らず、
すべての世界に愛のキが広がるであろう。
それをつくり出すのじゃ。
築くのじゃ。
そこに尊さあるぞ。
喜びあるぞ。
左には宗教、右には芸術、
神にまつわる心と、人間が作る芸術じゃ。
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