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マナブ 4+3+1=8

学ぶ LEARN

真似る マネル。。。から「学ぶ」マナブ という言葉が出来たと

ネットで調べると現れてくる。

そうだ!猫も犬も人も自然と真似て学ぶ。側にいる人の行動を自然と真似て学び成長する。色んな大人が居る。どの行動を真似するか?は、その子の選択だ。赤ちゃんは自然と自分にとって楽チンな行動を選択する。グリーンピースにスプーンを添えて置いても、スプーンは使わずに親指と人差し指で上手に摘んで口に持ってゆく。それは遊びだ。次は中指と親指だ!人差し指と中指だと摘めるかな???赤ちゃんなりにトライ&エラーの楽しい遊びに夢中なのだ。その中から知恵が生まれ知識が身に付く。それを無理矢理スプーンを持たせて手取り足取り食べ方を教えていたのでは赤ちゃんの考える力を奪っているのではないかと考えてみよう。親は行儀が悪い!躾が出来ていないと思われることに恐れを感じているからではないだろうか?分かります!私もそうして息子を育てて来ました。

と 考えると。。。今まで私達が学んで来た「学」は、高尚で生きる為に最も大切なモノの筈!だったが、そうでないのかも知れない。福沢諭吉の「学問のススメ」が日本人の大らかな遊び心を無くし、生まれてから死ぬまで学び続けよう!とか、学ぶことを止めたら人生はダメになる?。。そんな強迫観念ズッシリ重〜い「学」に囚われて生きて来たような氣がする。また、「学び」をやめて「遊び」ばかりしている人を軽蔑するように感情が動く。「学」。。。詰め込めば詰め込むほど、幸せに生きる智恵から遠ざけてはいないだろうか?

私達が物心ついて今日まで学んで来た「学」は、正解or不正解、良いor悪いのマークシート方式でその根拠を説明出来るようになる為に膨大な時間と労力を使って覚える!が「学ぶ」であった。そこには自分なりに考えて新しいものを生み出す時間も心の余裕もない。「遊び」がないのだ。先生が、知識人が、専門家が言っていることは根拠あることだから、それだけの見識のある人だから、鵜呑みにして暗記する。。。。暗記、暗くて見もせず記す。。。
真似る=学ぶは、ただの取っ掛かりで、本当に深い叡智の世界では、学問はとても浅い、薄っぺらなモノなのではないだろうか?

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自然に学ぶ

親は子供に言って聞かせてもその通りには行動しない。

しかし子供は親の言動と同じように言葉を発し、行動する。真似るのだ。

動物と同じでそれが自然なのだ。

昔の日本は集落みんなで子供を育てる素晴らしい環境があった。色んな大人に囲まれて子供たちは育った。厳しいおばちゃんもいれば、いつも酔っ払ってるじいちゃんもいてた。泣いている子もいれば、ボーっとして妄想に耽る子もいてた。そのまんまで良かったのだ。

大人は子供の模範となるべき!とか子供は本を読むべき!とか、明るく挨拶をしなければいけない!とか画一的なスローガンなんてなかった。今は綺麗事で「みんな違っていい」「個性の尊重」と言うが、同時に正反対の「協調性」「マナー」「人に迷惑をかけない」というような美辞麗句で個人の自由に制限をかける同調圧力がある。

例えば、泣いている子供が居てたら、みんなでその子のことを心配し、泣いている原因をみんなで見つけてその原因を退治しようという画一化は、気持ち悪いし不自然。みんな同じ思考&行動は新たな歪みを作り問題は大きくなる。泣いている子の気持ちを思いやれる想像力が画一化スローガンの中にはなく、義務感という空虚なモノが生み出される。

泣きたい子は泣けばいい。気になる人が泣いている子供に寄り添えば良い。それだけだ。

昼間っからお酒飲める環境にあってお酒飲みたいなら飲んでご機嫌な酔っ払いになれば良い。

元気に挨拶できなかったらしなくていい。それを尊重できる大らかな心が大切。

みんな違うのだ。それが自然なんだ。
ご最もそうな美しい言葉に惑わされ、空虚な画一化スローガンは、人の心に堅い蓋をする。泣きたいのに泣くのを我慢する。美味しいお酒を我慢する。無理して笑顔で挨拶する。それ、意味ある?何の為に我慢する?秩序が保たれないとか?周りの為とか?

好き勝手な行動をみんな嬉々としてやっていると、美しい虹のように調和が広がることを知ってますか?大人が嬉々として遊んでいる(=学ぶ=働く)と、子供たちは心惹かれた大人を真似るのです。嬉々として遊んでいる大人を沢山の見て子供は学ぶのです。どの生き方がいいか子供は選ぶのです。大人も好き勝手に生きればいいのです。それが自然に「学ぶ」になるのです。

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