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丹波 大原を遊ぶ

私が生まれた場所、大原(おおばら)。京都ヤサカ観光バスのバスガイドのテキストには、「丹波の秘境」と書かれている。

秘密にしたくなるくらい美しい桃源郷なのだ。天国との境目の場所なのかもしれない。

大原だけではない、京都府と兵庫県の丹波地方と呼ばれる山間部には、神話や不思議な伝承、美しい自然、豊かな土、有名、無名なパワースポットが在りまくるのだ。そこかしこに神様がいらっしゃる!

​そんな私の愛すべき丹波を心の赴くままに紹介させていただきます。紹介させていただく話の中には、昔のことをよく覚えておりありありと語る母からの伝承も含まれております。含まれているどころか、母の記憶力に大いに頼っての紹介になります。明治、大正、昭和を生きた丹波の住人達の喜怒哀楽、心のヒダ、人間関係を感じていただければ幸いです。

2023.5.3 大原祭り

大原神社

交通安全 安産の神様

天一位 大原神社
​和多志の産土神社 氏神神社です。昭和41年5月7日 大原にただ一人残った産婆さんに取り上げてもらって産声をあげました。覚えていませんが(笑)。​家で母は私を産んでくれました。その産婆さんが最後に取り上げた赤ちゃんは和多志だったそうです。光栄でドラマティックな誕生でした。その産婆さんと我が家との関係も面白い。その話は後々どこかの場面で紹介させていただくことにして、いずれにせよこの時期から人間は自然に生まれ、自然に死んでゆく事をしなくなったような氣がします。大原地区の私以外の同級生3人も病院で生まれました。小学生になって私以外みんな病院で生まれたことを知って、家で生まれた私は、時代遅れなんだという認識を持ったのを覚えています。みんな兼業農家、またはサラリーマンの家の子で、専業農家の父の職業が恥ずかしかった感覚が今の私に残っています。私の父は軽トラしかないのに、他の家はセダンの車があるのも羨ましかったなぁ~(笑)。

さてさてこの大原神社は安産の神様で有名で、遠方より安産祈願にお参りに来られます。丹波の山奥にありながら、昨今の御朱印ブームにパワースポット巡りの流行りにのっかって、沢山の人達が足を運んでくれるようになりました。567前までは。。。

​5月3日は「大原祭り」。子供のころ、大原祭りが楽しみで仕方がなかった。静かな境内に沢山の屋台がでて、お神輿やお稚児さん行列、大人も子供もみんな笑っていました。大人はお酒を飲んで、大いにおしゃべりをし、祭りを心から楽しんでいました。ワクワクする空気が流れていました。今から思えば、子供時代に沢山のワクワクがあったが、遠足より、修学旅行より、海水浴より、大原祭りが私の一番ワクワクだったことに今更ながら氣付きました(笑)。
なんで?どうして?あんなワクワク感を感じたの?小さな村の手作り的な特に有名でない村祭りなのに。。。なぜ?

考察してみました。人それぞれ何にワクワクするかは千差万別です。これは私の考察です。私自身のワクワク考察です。

私は、子供のころからみんなが同じように同じものを見てみんなと同じように楽しめませんでした。タノキントリオの3人のうち、女の子は田原俊彦or近藤真彦or野村義男のファンであらねばいけない空気がありました。殆どはマッチ派またはトシちゃん派、少し変わり者が野村義男みたいな感じ。私は全く全然、興味なしでした。3人共ど~でもよかった。周りの子が熱狂的ファンな意味がわからなかった。「俺たちひょうきん族」も全然面白くなかった。冷めた目で見てた。何が面白いのか全然分からなかった。あ、でも「八時だよ全員集合!」は好きでした。志村けんは面白すぎて衝撃的だった。私は、思うに そのイベントや番組の長が「こうしてみんなを楽しませよう!」という意図の中で作られた枠に違和感を感じていたのかもしれません。海水浴も最初は楽しいけど、みんな同じ時間に到着して、更衣室で着替えるために並んで、海の家、泳ぐ時間と場所を決められて、お昼ごはんの時間も、決まっていて、その通りにしなくちゃいけない。砂浜の暑さにダレて、べとべとする塩水に気持悪くなり、海に飽きてしまう。そしていつも思うのは、私は川遊びの方が好き。大原の川で自由に泳いでいた方が楽しかったし、飽きることなく毎日大原神社下のお釜さんの川で自由に泳いだ。子供会でバスを貸し切り、海の家を予約し、お金を使っての「海水浴パッケージ日帰りツアー」は恒例の行事となっていた。全国各地の子供会で行われていたんだろうなぁ~。同じようなイベントが。以上はイベントや番組の仕掛け人が「楽しいぞ~、参加すればみんなと同じように楽しめるぞ~」の意図の枠の内側だったからワクワクしなかった!という私の考察結果。我ながら腑に落ちる(笑)。と言うことは。。。ディズニーランドも、USJも「ふ〜ん」な私に納得(笑)。

すると、大原祭りが私にとって一番ワクワクな理由も腑に落ちる。だってみんな同じ方向を見て同じように楽しんでいない。みんな点々バラバラ好き勝手に楽しんでいる。好き勝手な時間にやって来て好き勝手に楽しんだら、好き勝手な時間に帰ってゆく。こうしなくちゃいけない!という義務も役割も何もないし、誰も強制しない。各自自由に遊んでいる。食べている。飲んでいる。お稚児さんの着替えの指示を喜々として仕切っているおばちゃんに酔っぱらって神輿を担ぐおっちゃん、金魚すくいの前で駄々をこねる子供、でも祭りは明るい氣の中、夕方には無事に終わっている。屋台が後片付けをしている様子をみて「あ~あ~、大原祭り終わっちゃったぁ~」と寂しくなったのを覚えています。イレギュラーな出来事を大らかに楽しみ、助け合い、笑い合う「大原祭り」の自由な空氣感が好きだったのかもしれません。今、私が主催している「川合小学校 里山サマーキャンプ」は「大原祭り」の延長線上だったのだなぁ~!とこうして書いていて腑に落ちます(笑)。

この大原という土地の磁場が天照大神を主祭神とする社を鎮座させ、この美しい里山を作り、やさしい住民を住まわせて、祭り(政治)を行っていた。その互いを思いやり神羅万象全てに感謝する優しい想念が、今の派手ではないが、大原の空氣感を作っていると感じます。水の神様、火の神様、太陽の神様、土の神様、お稲荷様、この宇宙に、この地球に、日本に、丹波に、大原に、草木虫けら、微生物、ウィルス全てに感謝です。この世にいらないものは、何一つない!!! この567騒動になって多くの人が氣付いた自然の法則だと思います。

遷座については、天児屋根命(アメノコヤネ)が宮地を求めてここ大原山麓の水門の瀬に来られたときに、水底から金色の蛙が現れ、 『私はこの水底に住んで長くこの山を守っており、嶺には白幣(シロヌサ)・青弊(アオヌサ)があり、いつも光を放っており、まさに神が鎮座されるべき霊地であります』と頼んだと記されています。
また、遷座のときの様子について、神が黄色い牛に乗って遷られ、それ故、「お釜さん」の平らな石の上には今でも牛の蹄の跡があると記されています。
大原神社は「天一位」という社号をもち、江戸時代には札にも刷り込まれていた。本紀によると、「一乾天の方位に御鎮座成ましまし、此謂を以て其位を尊て天一位大原大明神と社号を崇奉るものなり」 とある。乾の方位とは陰陽五行の方位で北西の方角にあたり、平安京から北西の方角をさす。

大原神社の節分祭は、コレまた普通とは反対です。

「鬼は内、福は外」

え??? 意味は、”福は民の元へ、鬼は神に任せなさい”

しかし、神様は今の民をみて、自分だけ福を貰おうとする、今だけ金だけ自分だけの近視眼的な人間を戒めの眼差しで悲しそうに見ているように感じるのは、私だけでは無いと思う。
2023.2.3夜の不思議な大原神社節分祭の動画です→
https://youtu.be/3GWu_kRiXEo

2024.1.24に新たに記す⬇️

また、宮司さんの説明によれば、江戸時代、この大原エリアは、お隣の綾部のお殿様、九鬼氏の領土でした。大原の鬼が綾部に行かないように配慮のゴマスリパフォーマンスという説もあるらしい。

しかし、それは、虚偽の上書き補強と分かった。ここ一年、日本の、いいえ、地球の成り立ちと古代の歴史を新たな視点から深堀してきた。地球は、人間だけの所有物のように今の現代人は、考えている。私も地球の管理人が人間だと信じてきて、この地球を未来永劫のちの子供や子孫が幸せに暮らせる場所にするためにどうすべきか?と上から目線で考えていた。

古代の世界、知的生命体は人間だけではなかった。あらゆる種族がこの地球に住んでいた。上半身が人間で体は馬?牛?、下半身魚。頭鳥人間、体蛇人間・・・まだまだ「なんじゃこりゃ?!」な神話の世界の生き物?神様?と呼ぶべきか?な知的生命体がいたのは、真実だろうと私の中で決定づけた。その中に頭に角がある種族がいた。スサノウノミコトも牛頭天王と言われ、頭に角があった!え?あ!ゼウスも!シバ神も!エジプトの太陽神アモンも!!角!・・・・そう!角を持つ種族は、とても靈性高く、心優しく、心強い種族だった。しかし、のちの所有欲ゴリゴリの弱肉強食の思念に囚われた種族たちがこの世を支配し、邪魔になる角族を鬼に仕立て上げ、山の奥の奥に追いやり、殲滅させた。

ペトログリフ研究家の武内一忠先生も著書で鬼について説明されており、これから真実が明らかになってゆくと思う。今日見た動画を是非ご視聴下さい。

また、佛教大学の八木先生がTVで大原神社の節分の鬼について説明しています。合わせてご覧下さい→→→YouTube

大原神社周辺を歩こう

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お釜さん

大原神社下の川

天児屋根命(アメノ͡コヤネノミコト)は、天岩戸に隠れた天照大神様に岩戸を開けて光の世に戻すため、美しい声で祝詞をあげ、歌を奏でた神様です。言葉の神様です。私の大好きな音靈、言靈の神様です。そんな天児屋根命が宮地を求めてここ大原に来てくれたなんて!そして私がいつも夏に泳いでいたお釜さんは遷座の時、黄色い牛に乗った神様が通られたとは!!!
​だから、私はこんなにも心がピュアなのね♪調べれば調べるほど、大好きになる故郷 大原です。

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​大イチョウ

郵便局の前

幼いころ、当たり前すぎて氣が付かなかったこのイチョウの木。

五十過ぎて氣がついた。凄い氣(木)だ!ごめんなさい、氣付かなくて。。。。

優しくて、微笑んで、包んでくれる。感謝しかないよ。大原神社の氏子たちを見守ってくれているような氣がしてならない。

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大原神社と大イチョウの間

美しい日本家屋に引き寄せられるように、中を覗いて見たくなる。

中は、予想を裏切らない、いやそれ以上の感動を貴方に与えるでしょう。

そして、美しい苔の庭と川のせせらぎ、自然の音靈に心癒されるコトでしょう。

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御旅所 大杉

お祭の神輿行列の休憩場所

樹齢700年の杉の木。

なかなかの迫力です。パワーを感じてください。

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産屋岩

門前町の外れ産屋岩からの眺め

巨大な岩がある。何でここに?周りの地層とは全く違う。

磐座?自然崇拝にある岩や山に神が宿る!てやつか??
太古の昔からこの大原という土地には、自然に感謝をして生きる民が住んでいたのかも知れない。

そう考えると、私のパワーは、この地が源かもしれない!と思うと勝手に嬉しくなる。

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産屋

​昔の産院?ん?もっと神秘的!

人は土から生まれて土に帰ってゆく。。。この世に「オギャ~」と産声を上げるのが始まりで、息を引き取るのが死で全ての終わりと信じ込んできた。自然のなかに身を置くと魂は生き続けるのかも?と感じる。昔の人は、土の上で生まれ、大自然の中で感謝をしながら生きた。人は自然の一部という考えの昔の人の営みを感じてください。そこから叡智が人に流れてくるのかもしれません。

病院で生まれて病院で死ぬのは不自然かも???いや、絶対に不自然だ!

この近代と言われる科学の時代、人間は不自然なモノを生み出し、それが科学の進歩で良いことだ!と洗脳されてきた。現代の人間は不自然なモノの中で生まれ、不自然なモノの中で生き、不自然な中で死んでゆく。幸せな光輝く生を科学、合理性、利便性、学で求めるには限界がきた。元の元の元に戻ろう

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自然と共に祭り営む人は美しい

国道173号線沿いのロードパークから秋葉山に登る道がある。大原神社の向かい側の山。

その山の頂上近くに”秋葉さん”呼ばれ昔から大原神社門前町の人たちが大切に守ってきた神様がいらっしゃる。我が故郷には沢山の神様がいて、民と共に生きてきた。何をするにも神様の周りに民が集まり、笑い、唄い、議論をし、酒を飲んで、山の幸を美味しく料理して持ち寄り、宴会をする。祭りをする。想像するだけで何て美しいんだろう。秋葉山から見下ろした秋の大原。黄金色の頭を垂れた棚田の稲穂の美しい事、夏のキャンプで子供たちが歓声をあげながら遊んだお釜さんの川、見守る大人たちの笑顔、大原神社のお神輿を担ぐ男の人たちの生き生きとした表情、いろんなことが目に浮かび、それが美しすぎて、涙が出てきた。大原を見守ってくれている沢山の神様と民との美しい繋がりを、これからも子孫たちに幸せに笑って繋いでゆきたい。山頂から深く感じた次第です。

不思議な谷を歩こう

大原神社の背後にある山沿いに流れる小川を遡ってゆくと地形そのまんま”谷”と呼ばれる長細いエリアがある。

私が生まれ育った家、今も住んでいる家はこの谷の入口近くにある。更に奥に進むと蛇ケ谷という伝説のエリアだ。

もっと深くこのエリアに伝承されている物語をこれから研究しま~す。そしてこのHPに紹介してゆきますね。ワクワクします。

​まずは、この谷に点在するお地蔵さん、荒神さん、お稲荷さん、山の神様、金毘羅さん。。。を写真でご紹介させていただきます。

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荒神さん

谷にある民家には必ず荒神さんが祀られています。最初の写真は我が家の裏庭に祀られている荒神さんです。

荒神さんとはなんぞや?五十半ばにして何かわかってなかった͡事に氣付き、またこの神様が「荒神さん」という名前であったことも初めて知った次第です。調べました。調べました。なかなか興味深いです。

民間信仰の神様です。かまどなど火を使う処に火の神様として祀られる三宝荒神(さんぽうこうじん)と屋敷や地域を守る地荒神(じこうじん)、牛、馬の守護神としての荒神様がいらっしゃるようです。靈験あらたかな荒々しい神様だそう。

仏教でも神道でもない土着の神様。土と共に生きる自然信仰の神様だ。後になって入ってきた仏教が結び付けてこじつけた感はある。

荒ぶる神!なんか怖そうだ。祟られるんじゃないか?災いを起こす神様か??と私たち現代人はイメージで捉えてしまう。でも、もしそうなら各家の庭や台所に荒神さんを祀るだろうか?

もう少し、深堀してみる。同じような言葉を見つけた。

「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」古代の日本人たちは、対照的に信仰していたようだが、性格正反対の神様なのに同時に一緒に祀れるの???

頭混乱気味になる。いや、大いに混乱。別のネットソースには「和魂も荒魂も同一の神であると。しかし、別々の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられている。」

う~、分かった!両極端な二重人格保持者????

土着の神様は、土から離れて生きている現代人にとって全く分からん。

ウィキペディアでは、

「荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。勇猛果断、義侠強忍等に関する妙用とされる一方、崇神天皇の御代には大物主神の荒魂が災いを引き起こし、疫病によって多数の死者を出している。これに対し、和魂は神の優しく平和的な側面であり、仁愛、謙遜等の妙用とされている。」

和魂は優しく平和的な神様である大原神社に祀られている天照大神様と考えると災いを引き起こした暴れん坊の荒神さんは荒魂の持ち主。対立構造だ。退化した想像力を無理矢理引き出し、私が導き出した物語はこうだ!👇

~物語の始まり始まり~

​昔々、大原の里には、悪い鬼がいました。村の娘を奪い、食べ物を奪い、悪行の限りを尽くしました。大雨を降らせ、大洪水をおこし、干ばつで農作物が全く獲れなくなり、村人は困り果てました。大原の村の長は、勇気を振り絞り鬼の元へ行き「もう、こらえてください。これ以上、私らを苦しめないでください」と懇願しました。すると鬼はにやりと笑い、「なら、この村で一番美しい娘を私の元に連れてくれば、村に災いを無くしてやる」と人身御供の脅しをかけてきたのです。な、な、なんてひどい奴。。。村の長は村人を集めてどうしたものか?と話し合いました。なかなか答えはでません。そして人身御供の期日の日に、大切な村の娘を人身御供に出すなど絶対にしない!と大原の長は決め、鬼の要求を無視しました。

​怒り狂った鬼は、村に疫病をはやらせ、民は病に苦しみ死んでゆきました。大きな災いの後、生き残った村人を守るために正義の味方和魂の神様が現れ、乱暴の限りを尽くした鬼を退治し、平和で豊かな村に作り替えてくれました。暗い夜の時代が終わったのです。明るい未来に笑える時代になったのです。そしてその明るい太陽の時代を作ってくれた天照大神様を大原神社に祀り、敬い崇め奉った。めでたしめでたし。

​~おしまい~

こんな感じ?でもなんだか違和感ある。なんだか腑に落ちない。村の中心に天照大神の鎮座した社、威風堂々の大原神社があるが、民に災いをもたらしたはずの悪神である鬼は外からは目立たないように、しかし、家の中で民の一番そばで大切に祀られている。そして不思議な事であるが大原神社の節分祭の豆まきに発する言葉が不思議不思議なのだ。「福は外、鬼は内」アレぇ~?

これには、諸説あるが、大原神社の宮司さんは、「鬼は全部大原神社に入れて、外で村人に悪さしないように囲い、村人には福が沢山ありますように」という願いを込めて「福は外、鬼は内」の豆まきをするようになったと説明があります。

また、文献によるとこの大原地区は江戸時代、綾部の九鬼氏のお殿様の領土でありました。なので綾部に災いが降りかからないように、九鬼のお殿様に配慮をして、我々大原が災いを一身に受けますというゴマすりパフォーマンス「福は外(綾部)、鬼は内(大原)」とした、とも。

鬼は悪者と確定したのが、大江山の鬼退治の話。てゆうか日本人の殆どは鬼=悪者、これには疑いの余地無しの認識です。毀滅の刃の鬼も人間の暖かい心は皆無だ。大江山には有名な元伊勢神宮があり、天照大神が祀られている。私の妄想物語は、ほぼほぼ「大江山の鬼退治」伝説からのモノであるが、大原神社と荒神さん リンクする。でも、なぜ?なぜに非道な無慈悲なはずの鬼を神として、一番近いところで家の敷地の中に招き入れて祀っているの?しかも「荒神さん」と敬称は「様」でなく「さん」付け。つい最近まで生きてたおじいちゃんみたいな親しさだ。ん~????天照大神、和魂、荒魂、いろんなキーワードでネットサーフィンしているとこんな興味深い深読みをしているHPを見つけた。

是非是非、一度こちらのHPを読んで、また戻ってきてほしい。天孫降臨の舞台、宮崎高千穂の裏読みだ。とっても興味深いし、事実はそうだったのかも?と考える。

日本の神々が降臨してきて、日ノ本の国が出来たのが、何年前か知らないが、それよりももっと昔に岩、山、水、生きとし生ける神羅万象全てに神が宿るという自然崇拝の民が平和に暮らしていたことは、想像できる。大昔にSDGsを普通に土着の民はやっていたのだ。そこに後からやってきた侵略者がこの地は、我々が管理する!と勝手に宣言し、邪魔な土着の民を鬼にして極悪非道な悪者に仕立て上げ、歴史書物に書かせて、侵略者である自分たちを神様にして正当化したのだ。後世の私たちは、その物語を信じている。

お~!そう考えたら、不思議な伝承は、腑に落ちる。福の仮面を被った善人面の侵略者は、あっち行けぇ!鬼に仕立て上げられたご先祖様は信頼できる守り神だから「鬼は内、福は外」だ。

本当のことは、隠して見えないようにされているのかもしれない。

う~、荒神さんで深堀しすぎて、長くなってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございます。

しかし、この探求は楽しかった(笑)

​まだまだ、不思議な谷の紹介は、続きます。

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光満ち満つ 山の神

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ここにこんな社が在ることさえも知らなかった。

西谷地蔵

和多志の祖父の時代のこと。明治30年ごろの生まれ金重おじいさんが若かった頃、大雨が降って、山からの土砂崩れで西谷地蔵が土に埋もれたそうである。里の人は、お地蔵さんを救出したまでは、良かったが、お地蔵さんを祀る場所がなくなったため、取り急ぎ、谷の集会場の箪笥の中に西谷地蔵さんをしまい込んだらしい。

それから、しばらくすると、次々と西谷地蔵が祀られていた場所西谷エリアに住む人々が病気になっていった。

もしかして、もしかして、集会場の箪笥の中でなく、元の場所に祀ってほしいお地蔵さんの祈り(意宣り)?

そりゃぁ、そうだ!谷の人たちは、お金を出し合い、お金のない人は、労力を出し合い、労力のない人は、知恵を出し合い、知恵のない人は、在るものを出し合い、木材や石垣の石が集まってきた。

そして、小さいながら、西谷地蔵をお祀りするヤシロが出来た。お地蔵さんは、無事に元の場所に戻れた。現在の建物は、その時に創建されたもの。

毎年、秋分の日に地蔵祭りを里の有志で続けている。

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